2017年3月1日水曜日

サッカーに「無駄走り」など存在しない

選手達のプレーを批判する際、「無駄走り」という語句がたまに使われます。

私はこの「無駄走り」という言葉が嫌いです。

人々がこの「無駄走り」という言葉を使い、時には安易な批判に満足していると、サッカーについて思考停止しているように見えます。

今回の記事の内容は、次の3点です。
  • 「無駄走り」→「過去を振り返っての後悔」。
  • 「無駄走り」を削った戦術とは?
  • 連携のために走る。

この記事で言う「無駄走り」とは、一定以上のプロレベル(Jリーグなど)で行われている動作を対象にします。

稚拙な個人技術が改善すれば、あるいは選手達がチーム戦術に習熟すれば、ある程度「無駄走り」は減るでしょう。

しかし、本質的に、サッカーから「連携に繋がらない走り」を減らす事はできません。



後悔


「無駄走り」とは何でしょう?あなたは定義できていますか?

多くの人達は「無駄走り」の定義を、「ボールを伴うプレーに絡めなかった走り」と答えるでしょう。

結果的にあの走り(動き)は必要なかった。疲労が増えただけ。」という認識が、「無駄走り」というラベル付けにつながります。

「結果的に」という修飾語が示すように、この「無駄走り」という認識は、過去を観ている時に発生します。

認識に付随する感情は、後悔でしょうか。

後悔というニュアンスは正しくないかもしれませんが、とにかく過去に対してのネガティブな感情です。

このような「これはダメ」という話になると、どうも減点主義的な発想に思えます。

しかし、攻撃的なプレーの成功のためには、この減点主義は建設的ではありません。

ミスの多いサッカーで勝つために考えるべきことは、「これからプレーを成功させるためにどうするか?」です。

この考えの視線は未来に向かっており、考え方は加点主義です。

良いプレーがポンポンとつながれば、良いシュートにつながります。

この先のプレーをどうやってつなげるか、が問題です。

研究や推理などをする際には、「これはダメだった」「あれもダメだった」と消去法で範囲(選択肢)を制限していけば、やがて正解(っぽいもの)に辿りつきます。

しかし、サッカーではこの考え方は通用しません。

ある瞬間の正解となるプレーがあったとしても、それは相手と味方の選手達のちょっとしたポジションの違いで容易に変化するからです。

自分達の戦術、動き方の約束事はあるでしょうが、それが得点を取るためあるいは防ぐための「正解」かどうかは、保証がありません。




「無駄走り」の無い戦術とは?


人によっては、個別のプレーを考えなくとも、総合的に無駄な走りを減らす事ができる戦術があるはずだと考えるかもしれません。

では、「無駄走り」の可能性を極限まで無くした理想の戦術はどんなものでしょうか?



答えの一つは、ゴール前での引きこもり守備からの一人カウンターです。

「無駄走り」を少なくするためには、ゴール前に引きこもって皆で守るのが一番です。

自分のゾーンに入ってくるボール保持者や、マーク対象の選手につく事は無駄ではありませんので。

さらに、二人目、三人目の余計な無駄走りを省くために、カウンターは一人で実行します。

残りの選手達は、ゴール前で待機です。



あるいは、フィールド全体を分割し、自分のゾーンから動かないサッカーも「無駄走り」が少ないでしょう。

「無駄走り」を減らすために、ボール移動はパスを中心とし、自陣ゴール前の攻防でも守備のために戻る事はありません。

「無駄走り」を減らすためには大事な事です。



あなたの考える「無駄走り」の無い戦術とはどんなものですか?



『「無駄走り」は嫌いだが、上に挙げたような戦術は考えていない』という意見や、『もしかしたら貴方は誤解しているかもしれない。単に効果の無い走りを減らしたいだけなんだ。』という意見もあるでしょう。

では、「無駄走り」をある程度減らすというなら、どこまでの「無駄走り」なら許容できますか?

その基準と根拠は?




連携のために走る


ボールを持っていない選手達が、連携するために走ったとしても、ボールが回ってこない事はなんら不思議なことではありません。

ボールコントロールのミスもありますし、なによりボール保持者の周囲にはたいてい数人の味方選手がいるために、必ず自分が選ばれる訳ではないからです。

しかし得点につながる良いプレーのためには、ボールを持っていない選手達が移動してパスコースを作る、あるいはゴール前に走り込む必要があります。

従って、得点をとるために「連携に繋がらない走り」が増える事は、サッカーではごく自然な事です。



プレーの連携ができる流れは、(1)ボールを持っていない選手がボール保持者の視界内に走り込む、(2)ボール保持者がその選手にパスを出す、2つの要素から構成されています。

1については、「ボール保持者がパスを受けた時に、他の選手がその視界内にいる事」でも良いのですが、今は走りが主題なのでこのように定義します。

この流れを見ると、「連携に繋がらない走り」を減らす事は、ボールを持っていない選手一人の判断で可能です。

ここで発生する問題は、パスを受けるために誰が走るか、です?

ボールを持っていない選手達が瞬時に協議して決める事はできません。

「連携に繋がらない走り」を減らそうとすれば、パスコースを受けるために誰も動かない、という事態も起きるでしょう。

従って、「連携に繋がらない走り」を減らすという判断は、プレーを停滞させる恐れがあります。


さらに、一人の選手が走る事を止めれば、パスコースが一つ減ります。

パスコースが減れば、相手チームはボール保持者と他のパスの受け手となる選手達へのプレッシャーをかけやすくなります。

一方、パスコースが増えれば、「誰がマークに付くのか」という判断などで相手選手達に少しでも時間を使わせる事ができます。


「無駄走り」と同じように過去に向けた視点から見ると、「連携に繋がる走り」が完成するためには、一人の選手がパスを受けてボールをもらう事になります。

ボールをもらえなかった他の選手達は、「無駄走り」です。

未来に向けた視点、可能性の観点から考えてみると、攻撃のためのオーバーラップなどパスコースを作るために走る事は、「連携に繋がる走り」そのものです。

攻撃のために、走ってパスコースを作る事は正しい事です。

ボール保持者の判断によっては、ボールが回ってこない事もあるでしょう。

しかし、パスが回ってくるという結果以前に、パスコースを作るために走る事は正しいプレーです。

ボールが回ってこないからと言って、走る事をやめてしまっては、サッカーは成立しなくなります。

サッカーに「無駄走り」など存在しない、と私は主張します。




「サッカー 無駄走り」でgoogle検索すると、40万件以上の記事がヒットします。

中には「無駄走りは大事」というように、下げておいて上げるニュアンスの記事もありますが、サッカーで「無駄走り」に着目する事、そういう語句を使う事は、サッカーの面白さからは離れた、焦点がずれた話しだと思います。

それでも「無駄走り」という言葉が使われる理由は、日本の夏の高温多湿の影響があるでしょう。

夏の試合は、夜とはいえ非常に暑く、選手達は苦しい様子です。

「無駄走り」は、そういう物があって欲しい、そこを改善すればもっと良いサッカーができる、という幻想や願いにも思えます。




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